シラノ・ド・ベルジュラック
2/19@東京芸術劇場
吉田鋼太郎のシラノを観た時、顔の醜さを笑わせる演出だけど、これ笑えるやつなのかな、と疑問を持ったのが印象に残っていて、
外見が美しい(とされている)人が、しかも付け鼻なしで演じたらどうなるんだろうかと思って観に行った。
ラップがあるというので、なんとなく想像はついていたけど、全くの別物だった。
古川雄大のシラノには滑稽さはなくて、だからこそ、悲痛さもそこまでは感じない気がした。そこに私自身のバイアスがあるということだと思うんだけど。
自分の顔の美醜のせいで恋心を打ち明けられないというよりは、ロクサーヌがクリスチャンを好きだから、言い出せなかった、というか。
でも、ロクサーヌは知性が顔に現れている、そういう人が好きだと言ったから、自分がそれに当てはまらないのは、やっぱり顔の醜さなのか。
馬場ふみかのロクサーヌはだいぶ現代っぽい感じに。
ラストのカフェのシーンで足を開いて座ったり、カーテンコールのおじぎで女性の腰を落とすお辞儀ではなくて、腰を折っていたのも印象的。
ド・ギッシュへの態度とか、バルコニー?のシーンであなたの詩の才能はそんなものじゃないでしょうと煽ったりとかなり強気な感じ。
ロクサーヌの感情があんまり露になっていない気がして、シラノが毎日戦場から手紙を届けたくなるほどなぜ好きなのか、あんまりわからないなと思ってしまった。でもそれもわたしのバイアスな気がする。
わかりやすく誰からも愛されるようなロクサーヌではなくてもいい。
顔が醜いけど詩の才能があるシラノと、顔は美しいが詩の才能はないクリスチャン、
外見も才能も努力はできても、どうしても手に入らないものがある。
素晴らしいものを持っている人を称賛することと、そうでない人を悪く思うことは別物だと思いたいのに、なかなか難しい。
詩は、韻は終わった、と悲痛に叫ばれたところで、散文に移行しても、詩は終わらないし、だからラップだったのか、と腑に落ちた。
溢れでたようなひとフレーズだけの歌が本当に素敵でこの人は歌う人なんだなと思ったりもしたのでした。